本当に「エモい記事いりますか」 メディアコミュニケーションとビジネスの両面から考える

なにごともバランスではありますが
松浦シゲキ 2024.08.26
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コミュニケーションプランナーの松浦シゲキです。

社会学者・西田亮介さんが2024年3月、朝日新聞に寄稿した<その「エモい記事」いりますか 苦悩する新聞への苦言と変化への提言>という記事を発端に、「ナラティブで、エモい記事」について長く論争が続いています。

 「ナラティブで、エモい記事」とは、具体的に言うと、データや根拠を前面に出すことなく、なにかを明確に批判するのでも賛同するわけでもない、一意にかつ直ちに「読む意味」が定まらない、記者目線のエピソード重視、ナラティブ重視の記事のことだ。

この「ナラティブで、エモい記事(以下、エモい記事で統一)」が必要以上に新聞社のコンテンツとして生成されてませんか?というのが論点です。

確かに、読者の感情に訴えかける記事には一定の需要があるかもしれません。しかし、感動を主目的として客観性を損ない、文体まで変えてしまうような「エモい記事」の増加には疑問が残ります。しかし、新聞社、いや、作り手として報道機関を自称する組織が、感情に訴えかける記事作りに注力することは、本当に適切なのでしょうか?

私のフレームワークである「3軸のコミュニケーション」で考えると、「エモい記事」はソーシャルコミュニケーションの一側面として機能します

人々の興味・関心に響き、特に血縁や地縁が濃い関係性において強い影響力を持ちます。しかし、ここで立ち止まって考える必要があります。報道機関としての本質的な役割は何か、そして「エモい記事」は果たして報道機関においてどこまで必要なのでしょうか。

 ゼロイチでありかなしかを否定するわけではありませんが、報道機関は結局なにをもってユーザーを引きつけるのでしょうか。そして感情重視の記事作りは、報道機関のビジネスにおいて適切で持続可能なのでしょうか?

ブランドコミュニケーションの観点から見る「エモい記事」

「エモい記事」をブランドコミュニケーションの観点から分析すると、問題点がより明確になります。私が提唱する「識別」「価値」「品質」という3つの要素を基に考えてみましょう。

まず、「識別」の面で考えると、新聞社や報道機関は「エモい記事」を通じて何を伝えようとしているのかが問題になります。感動的なストーリーや悲劇的な出来事を通じて読者の注目を集めることはできるかもしれません。しかし、これらの記事は本当に報道機関としての本質的な特徴を示し、受け手から「この媒体ならでは」という識別につながるのでしょうか。報道機関として、他のメディアと差別化された特徴や独自性を「エモい記事」で表現できているでしょうか。

次に「価値」の観点から考えます。確かに一部の読者は感動や共感を得られる「エモい記事」に価値を見出すかもしれません。しかし、それは報道機関が本来提供すべき価値なのでしょうか。社会の重要な出来事や問題に対する深い洞察や分析こそが、報道機関の真の価値ではないでしょうか。「このブランドが保持している情報は価値がある」と読者に感じてもらえるのは、感情に訴えかける記事よりも、むしろ客観的で正確な事実報道ではないでしょうか。

「品質」については、さらに疑問が生じます。感情に訴えかける記事が、はたして報道機関としての品質を高めることにつながるのでしょうか。「このブランドが提供する情報は、正確で信頼に値する」「このブランドならば安心の情報元である」という認識を読者に持ってもらうためには、むしろ客観的で正確な事実報道こそが重要です。長年にわたって報道機関の品質を築き上げてきたのは、正確で信頼できる情報提供ではないでしょうか。一方で、「エモい記事」の増加は、報道機関が人々の感情を操作しようとしているのではないかという懸念を受け手に与え、情報の正確性や客観性に関する疑念を強めてしまう可能性があります。これは結果として、報道機関の品質に対する信頼を損なう危険性をはらんでいます。

ブランドコミュニケーションにおいて、これら3要素のバランスは極めて重要です。「エモい記事」に偏重することで、報道機関としての本質的な役割や価値が薄れてしまう危険性があります。

もちろん、人間の物語や感情的な側面を伝えることも報道の一部です。しかし、「エモい記事」は、その性質上ソーシャルコミュニケーションで拡散されやすく、報道機関の全体的な印象に大きな影響を与える可能性があります。たとえ全体の割合としては多くなくても、これらの記事が受け手の認識を左右しかねないことを考慮する必要があります。報道機関の本質的な役割は、政治、経済、社会の動向を正確に伝え、時代の流れを明らかにすること。これこそが報道機関の根本的なコンテキストであり、ブランドとしての核心部分で、「エモい記事」の増加によってこの認識が薄れることは避けなければなりません。

結論として、「エモい記事」はブランドコミュニケーションの一要素としては機能し得るものの、それに過度に依存することは報道機関のブランド価値を損なう可能性があります。むしろ、事実に基づく正確な報道と深い分析こそが、報道機関としての真の「識別」「価値」「品質」を築き上げる基盤となるのではないでしょうか。​​​​​​​​​​

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続きは、3591文字あります。
  • 新聞社のビジネス構造と「エモい記事」の位置づけ
  • 受け手(読者)の視点から考える新聞の価値
  • 新聞はパッケージメディアとしての矜持を持って当たってほしい

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